Q&Aよくある質問

Q文化財関連スポットが目立つ印象ですが、サイト開設の目的はなんですか?
  • A

    沖縄は、豊かな自然、歴史、文化を有する地域で、まだまだ知られていない魅力的なところがたくさんあります。
    沖縄を訪れていただき多くの人たちにその魅力を知ってもらいたい、沖縄の島々にも、もっと足を運んでもらいたい、そういう思いを込めてこのサイトを開設しました。

Q御嶽(うたき)や拝所などを訪れる際のルールはありますか?
  • A

    御嶽や拝所は、地域の人々が大切に守ってきた特別な場所です。中には、聖域とされ立入禁止の場所もあるため、訪問の際は注意が必要です。また、御嶽や拝所、祭祀等を無遠慮に撮影することは控えましょう。
    御嶽や拝所などの文化財は、集落内や隣接して設置されている場所も多くあり、通行する際は徐行運転を心がけ、無断駐車はやめましょう。また、民家や畑、その他個人所有地など、無断で入ることはやめましょう。そのほか、沖縄には先祖崇拝・自然崇拝(天・地・海・水・火等)の信仰文化があり、湧泉(カー、ヒージャー)なども信仰の対象となっていますのでそのような場所にも配慮が必要です。
    それぞれの地域や島ごとに観光する際の心得(ルール)やお願いを実施していますので、詳細は市町村等のホームページをご確認ください。

Q沖縄は周囲にきれいな海が広がっていますが、どこでも遊泳して大丈夫ですか?
  • A

    海水浴場に指定されているビーチでの遊泳を推奨します。水難事故防止のための設備や環境の整備(ライフセーバーやハブクラゲ侵入防止ネット等)がなされていない場所や、自然海岸での遊泳には注意が必要です。
    海には、常に水難事故の危険が伴うことを認識し、安全に楽しくマリンレジャーを楽しみましょう。

    沖縄県警察:安全なマリンレジャー
    https://www.police.pref.okinawa.jp/bunya/anzennamarin/

Qコンテンツの写真を使用したいのですがどういった手続きが必要ですか?
  • A

    当ウェブサイトの写真の使用については、基本的に自由に利用できますが、一部著作権に係る写真があることやサイトのより効果的な運営、改善等を図るため届出制となっております。詳しくは、サイトポリシーをご確認ください。

Qもっと良い写真があり写真を提供したいのですが?
  • A

    写真のご提供は大歓迎です。当サイトのお問い合わせフォームからその旨ご連絡ください。改めて、メールにてご連絡いたします。
    内容等によっては、ご要望に添えない場合もありますのであらかじめご了承ください。

Qお気に入りに登録するにはどうすればいいですか?
  • A

    スポット詳細ページにあるマークをクリックしてください。
    (ハートが赤に変わります)解除する場合は、もう一回クリックしてください(ハートが白に変わります)

Q御嶽(うたき)や竜宮神(りゅうぐうしん)、土帝君(とぅーてぃーくん)など聞き慣れない言葉が出てくるのですが?
  • A

    オキナワンパールズの主要な用語解説を以下に紹介します。

    《オキナワンパールズ用語解説》

    ●史跡等

    【 グスク 】

     南西諸島に点在する城塞的な遺跡のことをいいます。一般的に「城」と認識されていて、代表的なものは世界遺産の首里城(那覇市)や勝連グスク(うるま市)、今帰仁グスク(今帰仁村)、中城グスク(中城村)、座喜味グスク(読谷村)などがあります。琉球石灰岩を積んだ曲線で構成される石積みと、アーチ式の城門などが特徴です。
     グスクは南西諸島に約300あるといわれていますが、ミントングスク(南城市)のように城の機能を持たない聖地的な場所や、タカラグスク(南城市)のような墓を指すもの、安禰宜(あねき)グスク(渡嘉敷村)のように集落的な様相を持つものなど、その姿は多様で、城塞としてのグスクがすべてではありません。大型の城塞的なグスクにも内部にはほぼ必ず御嶽があり、戦のための用途だけでなく聖なる場所としても利用されていて、廃城となった現在でもグスクが信仰の対象にもなっています。原初のグスクは多様な姿をしていて、やがて拡大発展していくなかでそれらの機能を取り込みつつ「城」の形態として完成していったと考えられています。
     「グスク」の語源は諸説ありますが、「御宿」や「御塞」、「御底」の字をあてたとする説、朝鮮語をルーツとする説、グスクの「グ」は「石」を意味し、「スク」は「聖地」を指すことから石囲いの聖地であるとする説などあります。なお、波上宮(那覇市)は「はなぐすく(端城)」とも呼ばれており、海岸の断崖部にあり戦前までは相方積みの高石垣で囲まれた場所でした。
     奄美地域や沖縄島北部には石積みのない「土でできたグスク」も多数存在しており、日本の中世城郭のように切岸や堀切で防御する造りです。琉球石灰岩の少ない地域であることから石材調達の面で土を利用したとみられ、代表的なものに名護グスク(名護市)や親川グスク(名護市)が挙げられます。ただし浦添グスク(浦添市)や勝連グスク(うるま市)からも石積みとともに堀切や土で造成した郭が見つかっており、中南部のグスクでも土を併用していたことがうかがえます。

    【 御嶽 】

     南西諸島に点在する聖地で「ウタキ」と読みます。総数約2000の御嶽があるとされ、現在の沖縄でも信仰の対象となっています。八重山では「オン」、宮古では「ムトゥ」などとも呼ばれています。
     各地の村落には必ず一つはあり、その村を守護する鎮守の杜的な存在です。境内には拝礼のための豪華な本殿などはなく、基本的には「イビ」と呼ばれる巨岩の場合が多く、香炉が置かれ、周囲にはクバ(ビロウ)やマーニ(クロツグ)など神の依り代となる神木が植えられています。
     琉球の創世神話では、開闢(かいびゃく)神のアマミキヨが最初に造った御嶽が安須森御嶽(アシムイウタキ)を始めとした「七嶽」であるとされ、そのなかには世界遺産の斎場御嶽(セーファーウタキ)も含まれています。沖縄のグスクにはこの御嶽がほぼ必ずといっていいほど存在するのも特徴で、現在でもグスクは信仰の場として生き続けています。例えば首里城(那覇市)には首里森御嶽という創世神話に関わる御嶽があり、勝連グスク(うるま市)のタマノミウヂ御嶽が中枢部の一の郭に存在しています。
     村落の御嶽の一般的なかたちとしては中核のイベがあり、その前には神庭が広がっていて、その近くには神事が行われる神アシャギ・殿(トゥン)という簡素な建物があります。さらに御嶽の前には村発祥の家である「根屋(ニーヤ)」があって、そこから扇状に村々の建物が広がっていきました。村落は御嶽を含む「クサティ(腰当)森」という自然の森に囲まれているのも特徴です。クサティ森は我が子(村落)を抱く母親のイメージでとらえられ、村を囲み守る森とされています。なお、御嶽の祭祀は神女のノロが執り行いました。

    【 ノロとユタ 】

     ノロ(祝女)は沖縄各地の集落で祭祀を執り行った女性神官のことです。女性に霊的な力が備わっており、親族兄弟を守護するという「ヲナリ神信仰」に基づき、村落で五穀豊穣や航海安全などを祈願しました。
     ノロは琉球王国の公的な宗教組織として編成されており、ノロは王国から辞令を交付され、村落に土地を与えられる世襲制で成り立っていました。神女組織の頂点に立つのが聞得大君(きこえおおぎみ)です。王族女性が就き、国家的な祭祀を執り行いました。就任式は斎場御嶽(南城市)で行われています(御新下り)。
     王国制度が消滅して以降も各地の集落にはノロが引き続き祭祀を執り行っていましたが、近年では後継者不足もあり、その数は減少しています。そのなかでも久米島の高級神女、君南風(ちんべー)などは現在でも継承されており、島の重要な祭祀を主宰しています。君南風殿内(久米島町)も祭祀の場所として使われています。
     一方のユタは私的な霊媒師ともいうべき存在であり、個人的な能力者として目覚め、託宣や占いなどを行いました。古琉球以来の伝統的な存在でしたが近世以来、迷信を広める者として、トキ(神事の日取りなどを決める占い師)とともに王府から禁止令が出され、近代にいたるまで弾圧の対象にもなりました。しかしユタは現在でも各地に存在しており、沖縄社会のなかで根強く定着しています。  

    【 湧泉(カーとヒージャー) 】

     沖縄各地に存在する湧泉のことです。古くから人々の貴重な水源として利用されました。小さな島である沖縄は大きな川がなく、雨が降るとすぐに海へと流れ出てしまいますが、琉球石灰岩の土地では多孔質の石灰岩に雨水が浸透し、地下の水を通しにくい泥岩層との境目から地表へと水があふれ、湧泉をつくりました。
     カー(川)は地表から浅い場所から湧き出る水を貯めて利用する形式で、ヒージャー(樋川)は地中などの奥の水源から樋を通して水を導き利用する形式となっています。村ガー(共同の井泉)、ウブガー(出産の際、ウビナディなどの儀式に使う井泉)、親(エー)ガー(村のもとになる井泉)、祝女(ノロ)ガー(神女が利用する井泉)、精進(ソージ)ガー(みそぎに使う井泉)など、用途やその由来で名称が異なっているのも特徴です。カーやヒージャーにはほぼ必ずといっていいほど祠があり、信仰の対象にもなっています。
     代表的なものに垣花樋川(南城市)や金武大川(金武町)、森の川(宜野湾市)などがあります。また首里も那覇市でも高所に位置するものの水が豊富な場所であり、首里城の龍樋や佐司笠樋川、宝口樋川なども知られています。かつて泡盛を造っていた城下町の首里三箇があったのも、酒造りに利用する水が豊富にあったことを示しています。
     こうした各地の湧泉は、上水道が整備される戦後しばらくまで実際に利用されていましたが、現在では一部が農業用水などに使われているものの、枯れているものも少なくありません。しかし、引き続き信仰の場所として参拝されています。

    【 宿道 】

     琉球王国時代に整備された首里城から沖縄島各地へと伸びる基幹道路のことです。各地の番所をつなぎ、「宿次」と呼ばれる首里王府からの令達をリレー方式で伝える制度に利用されました。宿道は「国頭方西海道」、「中頭方西海道」、「島尻方西海道」と「国頭方東海道」、「中頭方東海道」、「島尻方東海道」に分かれます。すべての宿道は首里城を起点としているところが特徴です。
     街道沿いの左右には一里塚が設けられ、移動距離の目安になっていました。しかし、現在では真栄田の一里塚などわずかしか残されていません。当時の雰囲気を残し、整備されている道は中頭方西海道の首里城-浦添間の道(尚寧王の道)、安波茶橋付近や中頭方東海道の一部である中城村の「中城ハンタ道」、国頭方西海道の一部である恩納村真栄田-仲泊間の道などが挙げられます。当時の面影は失われているものの、道筋としては残っている場所も多数あって、実際のルートを歩くこともできます。
     主要街道とはいえ、場所によっては起伏が激しく道幅も広くないところもあり、物資の大量輸送には必ずしも適していない道でしたが、近代になると、国頭街道(国道58号の原型)を始めとした馬車の通行が可能な道が整備され、鉄道の開設もあわせて陸上輸送が活発化していきました。

    【 ティラ・グンギンとビジュル 】

     ティラ・グンギンは沖縄各地にある祠のことです。寺や権現の字があてられ、『琉球国由来記』では神社に分類されています。洞窟や海岸の近辺に位置し、霊石のビジュルをまつっている場合が多く、子宝や子孫繁栄を祈願する場所として信仰されています。
     代表的なものに安里のティラや渡口のティラなどがあります。由来譚にはご神体の漂着にまつわるものが多く、これらは波上宮を始めとした琉球の神社(権現社)の由来譚にも共通する内容です。また、ティラ・グンギンの主宰者は琉球在来のノロ(神女)ではなく、「ホーイン」、「ホーイ」又は「ホウリ」という男性神職であり、旧暦9月9日(重陽の節)を例祭とする場合が多数です。修験道の「法印」や神社の職名「祝(ホウリ)」が由来とみられ、日本の真言宗や権現信仰が琉球の霊石信仰と習合するかたちで成立したとみられます。
     ビジュルは霊石のことです。丸く人型の自然石が多く、仏教の十六羅漢の一人、「賓頭盧(びんずる)」が沖縄風になまったものです。泡瀬のビジュルなどが知られています。子宝祈願や一部では占い石として信仰されています。沖縄島と八重山に分布していて、宮古島にはみられません。ビジュルは「フトゥキ(仏)」とも呼ぶ事例があって、仏教信仰が琉球に土着し変容したものとみられます。

    【 土帝君 】

     中国伝来の土地、農業の神のことです。トーティークン、土地公とも呼ばれます。琉球が中国化路線を進めた17世紀以降、1698年に大嶺親方が中国から神像を持ち帰り、各地に普及していったといいます。土帝君の神像は陶器製や絵像などをまつってありますが、一部では石塔の事例もあります。喜名の土帝君のように各地の神像の大半は失われてしまいましたが、瀬底の土帝君や棚原の土帝君などがなお現存しています。土帝君の祭祀は旧暦2月2日に行われることが多く、農業のみならず豊漁、商売繁盛の神としても信仰されています。

    【 神アシャギ(アサギ) 】

     集落内の祭祀を執り行う際、神々を招く聖なる神殿です。主に沖縄本島北部や奄美において呼ばれていますが、沖縄本島南部などでは「殿(トゥン)」と称されている場合がほとんどです。神アシャギの建物は茅葺きで壁囲いがなく、石柱のみからなる簡素な建物で内部には何もなく、軒が極端に低いのが沖縄本島北部などでは一般的です。なお「アシャギ」とは一般的な民家においては「離れ座敷」を指します。
     なお御嶽と神アシャギの関係ですが、一般的に御嶽は集落の後背部の丘陵や原生林にある聖域で、御嶽の前には神庭と呼ばれる広場空間があり、その近くに神アシャギが配置されていて、その場所において神事を執り行う場となっています。
     現在、昔ながらの茅葺きの神アシャギは少なくなっていますが、現存するものとしては伊是名島にある諸見の神アシャギや今帰仁村の崎山の神アシャギなどが知られています。現在、大半の神アシャギは赤瓦葺きやセメント瓦葺きに改修されている場合が多く、軒も高くなっているのが特徴です。例えば赤瓦葺きは大宜味村屋古のアサギ、セメント瓦葺きは今帰仁村今泊のフプハサギなどが挙げられます。形は変わりましたが、今でも集落の人たちの大事な信仰の場所として使われていることは変わりません。

    【 梵字碑 】

     梵字(古代インドのサンスクリット語がもとになった字)が刻まれた石碑のことです。仏教の真言宗で呪術的な文字として扱われ、仏教の伝来とともに琉球でも広まりました。国頭から那覇、豊見城など各地に分布し、石垣島や粟国島、多良間島でも確認されています。建立年代は16世紀末から19世紀、近世期にかけてのものですが、年代が記されていない梵字碑も多数あります。
     読谷村の渡具知海岸にある梵字碑には「アビラウンケン」と読む梵字が刻まれ、これは大日如来の真言を意味します。また北中城村島袋には不動明王の真言である「カンマン」の梵字碑がいくつか設置されています。多良間島の仲筋には、土原豊見親の墓碑の上部に刻まれた梵字があり、18世紀に来島した心海上人によるものとみられます。おもしろいところでは、西原町の我謝に石敢当の上部に梵字が刻まれたものがあり、石敢当の魔除けの力を増大させるために付けられたと考えられます。
     梵字そのものではないですが、浦添ようどれの墓室内にある輝緑岩製の石棺に付けられた宝珠には「唵嘛呢叭弥吽(オンマニパメフン)」というラマ教の真言が刻まれています。この真言は日本本土での使用は見られず、中国福建省から台湾にかけて見られるようで、中国から直接、琉球へ伝わったものと考えられます。

    【 シーサー 】

     沖縄各地にある魔除けの獅子像。中国から伝わった風習と考えられ、もっとも古いシーサーは15世紀頃の首里城瑞泉門の左右に置かれた石獅子と推定されます。城門だけでなく16世紀の王墓・玉陵にも設置され、近世期には各地の集落に石獅子が置かれ、火事を防ぐ「ヒーゲーシ(火返し)」や悪霊を防ぐ「ヤナカジゲーシ(悪風返し)」として利用されました。この時期の石獅子は、集落の各家にそれぞれ置かれたのではなく、集落全体を守る目的で単独で置かれることが一般的でした。
     富盛のシーサー(石彫大獅子)は、記録に残されているなかではもっとも古い集落の石獅子で、1689年に設置されました。この頃、集落では火災が頻発していたため、久米村の風水師・蔡応瑞の助言で八重瀬岳に向けて「火返し」として建てられたものです。同じく「火返し」を目的としたものでは首里の御茶屋御殿の石獅子などが知られています。
     宜野湾市喜友名には集落を囲むようなかたちで7体もの石獅子が設置されています。集落に悪いものが入らない魔除けを目的としたもので、集落に置かれた石獅子としては沖縄県内でもっとも多い数です。石獅子はそれぞれに個性のあるデザインで、コミカルな表情をしているものもあります。
     現在、一般的になっている屋根の上や門扉の左右に置かれた漆喰や陶器製のシーサーは、明治以降に普及したものです。瓦屋根に塗った際の漆喰を利用して作られたとされます。

    【 七御嶽 】

     琉球の開闢神話で、創世神のアマミキヨが降臨し、沖縄に最初に作った御嶽のことです。国頭辺戸の安須森、今帰仁の金比屋武(カナヒャブ)、知念森(知念グスク)・斎場御嶽、藪薩の浦原、玉城のアマツヅ(玉城グスク)、久高島のクボウ御嶽、首里森御嶽・真玉森御嶽を指します。総数約2000もあるとされる沖縄の御嶽のなかで最も格式の高い御嶽です。神聖な御嶽といえば世界遺産となった斎場御嶽が知られていますが、本来はこの七御嶽の一つとして位置づけられます。
     それぞれの御嶽では、琉球の時代より国家的な祭祀が執り行われてきました。たとえば安須森御嶽はそのふもとにある辺戸大川で正月の御水取りの儀式が行われ、斎場御嶽は琉球最高の神女である聞得大君の就任儀礼「御新下り」の舞台ともなりました。またクボウ御嶽や藪薩の浦原では稲や麦の初穂儀礼(ミシキョマ)なども行われ、後の東御廻い(アガリウマーイ)の巡礼路にもつながっていきます。
     七御嶽は主に沖縄島南部の東海岸に集中していますが、これは東方海上にあるとされた沖縄古来のニライカナイ信仰が影響しているとみられます。藪薩の浦原内にあるヤハラヅカサと呼ばれる海岸は東方の大東(うふあがり)島より創世神アマミキヨが沖縄に初めて上陸した地点との伝承も残されています。

    【 殿内(トゥンチ、ドゥンチ) 】

     琉球王国時代、士族階級のうち上位の総地頭家や親方家を指す名称です。上級神女の屋敷なども祝女殿内(ヌル〔ヌン〕ドゥンチ)と呼びます。たとえば首里当蔵町の伊江殿内は18世紀頃、親方を輩出した伊江家の屋敷跡で、また首里赤田町の首里殿内は、高級神女の首里大あむしられの屋敷跡です。
     なお王子や按司などの王族クラスの屋敷は「御殿(ウドゥン)」と呼ばれていました。王位継承者の中城王子が居住した中城御殿、首里汀良町の聞得大君御殿が知られています。御殿の名称は王族の屋敷だけではなく、王家に関わる家政機関や施設などにも用いられました。首里の大美(うふみ)御殿や西原町の内間御殿などが知られています。

    【 龕屋(ガンヤ) 】

     葬儀において遺体を墓まで運ぶ龕(ガン)を収めた小屋のことです。龕は集落の共用物で、通常はこの龕屋に収納されていました。一般的に龕は朱色で塗られ、入母屋屋根を載せた家型をした輿(こし)になっていて、壁には仏画や蓮などの絵が描かれています。沖縄で風葬が盛んだった時代に使われていましたが、火葬が主流になった現在ではほぼ使われることはなくなり、龕屋の姿は消えつつあります。
     現在でも見ることができるのは中城村津覇の龕屋や沖縄市古謝の龕屋などが挙げられますが、これらの龕屋は戦後使われなくなっていたのを修復したものです。

    【 石敢當 】

     T字路の突き当りに置いた魔除けの石柱のことです。もともと中国発祥で琉球の時代に伝来し、18世紀以降、沖縄に広まったと考えられます。「石敢當(当)」の語源は諸説あり、中国の将軍の名前とも、石に対する信仰を表したものともされます。年号が記されているなかで最古のものは久米島の1733年の「泰山石敢當」です。
     沖縄では霊石信仰とも結びつき広まったとみられます。今帰仁村の今泊には無銘で人型の石敢當があり、人型の霊石を拝むビジュル信仰との関連性が見いだせます。珍しいところでは、上部に梵字が刻まれた石敢當が西原町の我謝にあり、石敢当の魔除けの力を梵字で増大させるために付けられたと考えられます。
     沖縄独特の風習とされる石敢當ですが、実は青森県から鹿児島県までに広く分布しています。例えば鹿児島県指宿市の山川港には「石敢當(セッカントウ)」と呼ばれる石板が、街路に多数設置されています。全国にみられる石敢當ですが、その数は数えるほどであるのに対して、沖縄では現在でもコンクリートやプラスチックなど石以外の素材で作られ続けて、街のいたるところで見ることができます。石敢當が全国で一番普及している地域が沖縄ではあることは間違いありません。

    【 印部土手石(ハル石) 】

     18世紀、琉球国内の土地測量のために各地に設置された図根点のことです。各間切(現在の市町村に相当)に200~300の印部石を設置して、これらの石を基点に、田畑や海岸線、河川や集落などを測量し、これらの調査をもとに3000分の1の間切絵図を作成しました。その正確さは伊能忠敬の地図にも匹敵するもので、完了に13年の月日を要するものでした。
     印部石は原名(小字名)と記号としてのひらがなやカタカナが刻まれています。大半が開発などで失われましたが、現在残っているものでは、うるま市江洲の印部石や浦添市仲間の印部石、座間味島の真謝原の印部石などが挙げられます。とくに印部石そのものだけでなく、周囲を囲む根張石や土を持った土手など琉球王国当時の原型をとどめているものは貴重です。

    【 火の神 】

     ヒヌカンとも言い、沖縄や奄美で台所にまつられる神のことです。かまどに見立てた3個の石を拝みますが、現在では単に香炉を置くだけの場合が多いようです。火の神は元来、家庭の神ですが、地方役人やノロがまつったものを地頭火の神やノロ火の神などと呼んでいます。火の神は旧暦12月24日に昇天し、新年の1月4、5日頃に再び天から迎え入れるという風習があり、これらは中国の竈信仰の影響もあると考えられています。

    【 琉球八社 】

     琉球王国時代から続く波上宮、沖宮、安里八幡宮、識名宮、末吉宮、天久宮、普天間宮、金武宮の総称です。薩摩藩の支配以降、重視されるようになった真言宗の権現社にあったお宮が、後世に八社と位置づけられるようになったと考えられています。
     琉球の神社の特徴は、八社のうち八幡宮を除いてすべて熊野信仰であるように、熊野信仰に偏重していること、那覇や首里といった都市部に大半が集中していること、巨岩や洞窟のある神社が多いこと、寺院とセットになった権現信仰のかたちであること、などです。こうした特徴の要因としては、熊野信仰が補陀楽信仰や地下世界への信仰があり、沖縄在来のニライカナイ信仰と似ていることなどが考えられます。
     その他の神社には、天照大御神をまつる浮島神社や那覇港の南岸にある住吉神社などが挙げられます。

    【 威部(イベ) 】

     御嶽の中心部にある神の依り代、ご神体のことです。イビとも言います。御嶽のなかでもっとも神聖な場所とされ、一般的に自然の巨岩やクバやクロツグなどの神木があり、その前に香炉が置かれていることが多いです。各御嶽のイベには「〇〇の御イベ」などと神名が付けられています。
     たとえば中城村の中城城跡内には「中森ノ御イベ」や「シライ富ノ御イベ」、「小城ノ御イベ」などがあり、いずれも琉球石灰岩の自然石がまつられています。

    【 アマミキヨ 】

     琉球の開闢神話で、琉球の島々を作った創世神のことです。近世の歴史書では「阿摩美久」とも書かれています。一般的に女性の神と考えられていて、対になる神に男性のシネリキヨがいます。神話によると、アマミキヨは天帝の命令を受けて天から土と石、草木を持って沖縄の島々と七御嶽を作り、さらに天から男女をたまわり、2人の間に産まれた長男が国王(天孫氏)、次男が按司、三男は百姓の始まりとなり、長女は君々(高級神女)、次女は祝女(ノロ)の始まりとなった、と伝えられています(『中山世鑑』)。
     また天から降臨した男性がシネキリユ(ヨ)、女性がアマミキユ(ヨ)であり、2人が琉球の地を作り、子どもが生まれ、彼らが王やノロ、庶民となったという伝承もあったようです(『琉球神道記』)。
     七御嶽の一つ、藪薩の浦原にあるヤハラヅカサには東方海上にある大東(うふあがり)島からアマミキヨが上陸した地とされ、また近隣の受水走水はアマミキヨが知念大川とともに稲を最初に植えた地としても伝えられています。浜比嘉島にはアマミチュー(アマミキヨ)の墓、シルミチュー(シネリキヨ)の墓と伝えられる場所があり、各地にアマミキヨにまつわる伝承が残されていることがわかります。

    【 ニライカナイ 】

     沖縄古来の信仰で、東方の海の彼方に存在すると考えられていた異世界のことです。神々が住み、セヂと呼ばれる霊力の源泉でもあり、沖縄にそれらがもたらされると考えられていました。ニライカナイからは豊穣だけでなく、災厄など悪いものもやって来るともされ、農作物を荒らすネズミや虫を、もとの地であるニライカナイに戻すという儀礼もおこなわれました。ウンジャミ(海神祭)でのネズミ送りやアブシバレー(畔払い)などがそれです。ニライカナイはまた地下世界にも存在すると考えられていたようです。
     一方、神々の住む天上世界として考えられていたのが「オボツカグラ」という異世界で、とくに王権を守護する神々がおもむく世界として考えられていました。

    【 按司 】

     古琉球の時代、各地に割拠していた政治的リーダー、首長。いわゆる「豪族」的な存在です。長老や父を意味する「あさ」「あす」が転訛して「あじ」「あんじ」になったともいわれます。按司は各地で「グスク」と呼ばれる城塞的な拠点を築き、勢力の拡大をはかりました。やがて抗争を勝ち抜いた強大な按司が「按司の又按司(按司のなかの按司)」や「按司添(おそ)い(按司を支配する者)」と呼ばれていきます。また「世の主」も按司の別名として呼ばれていきます。
     琉球王国統一後には、やがて王族の身分を示す政治的なランクの名称に変わっていきます。16世紀初頭には、すでに按司が王族の示す名称として使われていたようです。按司は男性の領主や首長だけでなく、「首里佐司笠按司」や「踏揚按司」など、王族女性や高級神女の名称としても使われていました。

    【 バンタ、ハンタ 】

     「崖」を意味する沖縄の言葉です。国頭村の茅打ちバンタや久米島の比屋定バンタ、中城村を通るハンタ道(中頭方東海道の一部)の名称は、崖状の地形に由来しています。また古来の信仰で太陽の沈む、西の向こうを「テダ・バンタ」とも呼んでいましたが、これは直訳すると「太陽の崖」という意味になります。

    【 グムイ、クムイ 】

     「池、沼」を意味する沖縄の言葉です。例えば首里城隣にあった龍潭は別名「魚小堀(いゆぐむい)」と呼ばれています。また同じく戦後しばらくまで首里にあった「蓮小堀(りんぐむい)」なども知られています。また「クムイ」に由来する地名として首里の「鳥小堀(トゥンジュムイ)村」、現在の鳥堀町が挙げられます。

    【 ウトゥーシ 】

     遥拝のことです。「お通し」と書き、遠く離れた場所から聖地へ向かって拝むことを意味します。例えば斎場御嶽では男子禁制のため、男性は御嶽内に入り礼拝することができないので、御門口(うじょうぐち)という入口に香炉が置かれており、そこで斎場御嶽を遥拝していました。また首里の弁が嶽(弁之御嶽)は久高島や斎場御嶽への遥拝所として、国王の祈願所となっていたことが知られています。
     現在、那覇港口の三重グスクでは、あの世の正月とされる「十六日祭」において、離島出身者がふるさとに向けて遥拝する場所にもなっています。

    【 若水、産水 】

     「若水」とは元旦にその年初めて汲む水のことです。各家庭の井戸やカー(井泉)から汲んで、その水で顔を洗い、口をすすいで身を清める儀式を「若水取り」と言い、若返りの意味が込められていました。琉球王国時代には国頭の辺戸大川やその年の吉方のカーから汲んだ若水が、元旦の儀礼において首里城の国王のもとに献上され、「お水撫で(ウビナディ)」というまじないに利用されました。
     「産水(ウブミジ)」とは、生まれた子供に浴びせたり、水撫での儀式に用いたりするためのカー(井泉)の水のことです。産水は集落の「産井(ウブガー)」と呼ばれる湧き水から汲まれました。

    【 村遊び、毛遊び 】

     沖縄各地で行われた、男女の出会いの場となった催しのことです。一般的に、集落の原野(毛)に集まり、歌や三線、踊りをして楽しみました。この出会いの場をきっかけとして、男女が交際し結婚するにいたる場合が多かったようです。14、5歳より参加し、既婚者は参加しませんでした。沖縄県となり近代にかけて毛遊びは風紀を乱すものとして禁止の動きが強くなり、やがて廃れていきました。

    ●書物

    【 『海東諸国紀』(1471年) 】

     朝鮮王朝で編集された海東諸国(日本・琉球)について書かれた書物です。ハングル制定にも関わった申叔舟の手によるもので、1471年に成立しました。日本各地域や琉球の詳細な地図が掲載され、歴史や地理、風俗、朝鮮へ派遣された使節の一覧など、日本と琉球との外交に必要な実用書として利用されました。
     琉球に関しては「琉球国紀」と「琉球国之図」、琉球語の「語音翻訳」があり、とくに「琉球国之図」は沖縄各地を詳細に記したもっとも古い地図で、もとは博多商人の道安が朝鮮に献上した琉球から博多間の航路図がもとになっていると考えられます。

    【 『琉球国由来記』(1713年) 】

     1713年に首里王府によって編集された全21巻の琉球の体系的な地誌です。王府の公式行事や官職、様々な事柄の由来と始まり、那覇・泊・久米村について、寺院や権現社、首里や各地域の御嶽と祭祀など、当時の琉球社会の様相について詳しく知ることができます。とくに各地域の御嶽と祭祀については詳細に記されている点は注目されます。
     なお1731年には、この『琉球国由来記』を簡略化して漢文に書き改めた『琉球国旧記』も編集されています。

    【 『山奉行所規模帳』(1738年 】

     1738年に編集された山林行政についての基本的な法令書です。政治家の蔡温によって編集されました。山林行政の職務規定や杣山(王府管理山林)の保護管理、木の養成方法や森林警察と罰則などが細かく記されています。
     なお『山奉行所規模帳』は「林政八書」と呼ばれる王国時代の林政に関する書物の一つで、これらは蔡温の手によるものとされています。蔡温は小さな島国である琉球において、燃料や建築材として必須であった森林を持続可能にすることをめざし、山林行政に力を入れていました。

    【 『球陽』 】

     1743年から編集が開始された琉球王国の正史です。久米村の鄭秉哲(ていへいてつ)らが中心となって実施されました。その後、代々書き継がれていき、1876年まで編集されました。正巻22巻と附巻4巻からなります。編年体で書かれていて、歴代王ごとにその事績がまとめられています。内容は中央や地方をくまなく対象にし、身分を問わずあらゆる記事が掲載されているのが特徴です。
     附巻は尚寧王の代から始まり、日本関係の記事がまとめられています。また年代不明な事柄は外巻の『遺老説伝』として別にまとめられています。

    ●祭祀

    【 ウンジャミとシヌグ 】

     ウンジャミ(ウンガミ、ウンギャミ)は旧暦7月に沖縄島北部でおこなわれる海神祭の総称です。ノロ(神女)を司祭者とし、海の向こうの異世界ニライカナイより神々を招き、集落の人々への加護を願います。
     近年は祭祀が縮小・簡略化されていますが、国頭村の安波、与那、奥間、比地、大宜味村の田港、屋古、塩屋、今帰仁村の古宇利などは古い祭祀のかたちを維持しています。とくに塩屋湾一帯のウンガミは国の重要無形民俗文化財に指定されています。
     塩屋湾のウンガミでは、神々を迎えた神女が神アシャギにおいて様々な儀式を執り行い、塩屋湾においてハーリー競争が行われます。また神女は竜宮の神に豊作と豊漁を祈願します。翌日の行事は、「御願の年」と「踊り年」の1年交代で異なる儀式がおこなわれるのが特徴です。
     シヌグは作物の収穫後、農閑期の旧暦6~8月の間におこなわれる祭りで、作物の害虫や害獣を駆除する祓いの儀式がおこなわれ、豊作が祈願されます。国頭村、本部町、伊是名島、伊平屋島、平安座島、伊計島、浜比嘉島や、奄美群島の沖永良部島や与論島などでもおこなわれます。沖縄島北部では、ウンジャミと対をなす重要な祭祀となっています。とくに安田のシヌグは国の重要無形民俗文化財に指定されています。

    【 カー拝み 】

     各地の「カー」といった湧泉に対する拝礼の行事です。古来、沖縄では湧泉に対する信仰があって、多くのカーなどには拝所が設けられています。カーの水では聖なる水として額を撫でて再生をはかる「お水撫で(ウビナディ)」の儀式も行われました。各地に存在する「精進(ソージ)ガー」は禊ぎのための湧泉として利用されていました。
     各地の村落祭祀でもカー拝みがあり、例えば南城市玉城の船越では1月3日のハチウビーと五月ウマチーではこのカー拝みがおこなわれ、集落にある7つのカーを巡礼しました。

    【 ウマチー 】

     いわゆる稲穂祭のことで、2月、3月、5月、6月におこなわれました。ノロ(神女)などが稲や麦を供え、豊作を祈願します。王国時代には首里王府が日を選んでいましたが、明治以降は旧暦の15日頃におこなわれるのが一般的になりました。2月ウマチーは麦の初穂祭、3月ウマチーは麦の収穫祭、5月ウマチーは稲の初穂祭で、6月ウマチーの収穫祭では豊作の感謝をささげ、綱引きなどの行事もおこなわれました。現在では門中(一族組織)単位でおこなう事例もあるようです。

    【 アブシバレー(畦払い) 】

     旧暦4月におこなわれる害虫・害獣祓いの儀式のことです。イナゴやネズミなどを捕らえ、拝所で祓いの祈願をした後、草木で作った小舟にくくりつけ、沖へ流し、豊作を祈願します。
     海へ流すという行事は、沖縄古来のニライカナイ信仰にもとづいています。東方海上になるとされた異世界のニライカナイからは、神々や霊力がやってくるとともに、災厄もまたもたらされると考えられていました。アブシバレーは、災厄である害虫・害獣をニライカナイの世界へと戻すことを意味しています。

    【 浜下り(ハマウリ) 】

     旧暦3月3日におこなわれる、ご馳走を持って浜辺へ下りて遊ぶ年中行事です。大潮の日でもあるので、干潟で潮干狩りなどを楽しみます。海へ入ることは災厄を払い清め、健康を祈願する意味合いもあります。老若男女がおこなう地域、女性だけがおこなう地域など様々に分かれています。この時に食べられるものの一つが「三月菓子(サングワチグヮーシ)」という揚げ菓子で、角棒状でサーターアンダーギーに似ているのが特徴です。

    【 清明祭 】

     旧暦3月頃からおこなわれる祖先供養の年中行事です。もとは中国の「清明祭」が伝来したものですが、沖縄では「シーミー」と呼ばれます。正月や盆とならび、沖縄の年中行事のなかでも盛大におこなわれます。
     親戚一同の墓前の庭に集まり、重箱料理(ウサンミ)を並べ祖先を供養した後、皆で歓談をしながら食事をとります。清明祭には神御清明(カミウシーミー)と清明祭に大別されますが、神御清明は門中の血縁などに関わりの深い按司墓やノロ墓などを巡礼しました。
     清明祭が公式におこなわれた最初の事例は1768年の王墓・玉陵においてでした。これ以降、士族を始めこの風習が広まっていきますが、沖縄すべての地域がおこなわれたのではなく、沖縄島北部や宮古・八重山ではごく一部にとどまっています。

    【 四日の日(ユッカヌヒー) 】

     旧暦5月4日におこなわれる、豊漁や航海安全の祈願の年中行事です。この日、那覇や糸満の港町や各地の漁村ではハーリー(爬竜船)競争がおこなわれます。また子供の健やかな成長を祈り、かつては特設の玩具市が立ち、起き上がりこぼしや張り子のチンチン馬グヮーなど伝統的な郷土玩具が売られました。
     ユッカヌヒーにちなんだ食べものとしては、ポーポーやチンビンといった沖縄版クレープの焼き菓子が挙げられます。

    ●戦跡

    【 ガマ 】

     「洞窟」を意味する沖縄の言葉です。サンゴ礁からなる沖縄の島々では自然の鍾乳洞が多くみられ、琉球王国時代から神聖な御嶽としても信仰されるガマもありました。たとえば浦添市にある浦添グスクのディーグガマや牧港のティランガマなどです。沖縄では古来、洞窟がニライカナイの地下世界へ通じる穴としても考えられ、神聖視されたようです。
     1945年の沖縄戦の際には、ガマは戦火から身を守るための壕としても利用されました。たとえば沖縄県庁最後の地として知られる糸満市の轟の壕や、南城市にある陸軍病院の分室として使われた糸数アブチラガマ、集団自決が起こった読谷村のチビチリガマなどが挙げられます。

    【 トーチカ 】

     コンクリートで作られた防御陣地のことです。1945年の沖縄戦の際、日本軍が各地に構築しました。分厚いコンクリートの壁には小さな窓が開けられ、ここから機銃や大砲を撃ったり、また観測のために利用したりしました。
     現存する日本軍のトーチカとしては、宜野湾市の嘉数高台のトーチカや、読谷村都屋のアブトゥガマのトーチカ、与那原町板良敷のトーチカなどがあります。珍しいところでは、壁面を琉球石灰岩で偽装した中城村の161・8高地陣地のトーチカなどがあります。

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