南大東島は、1900年から私企業である玉置商会によって開拓された民間所有の島で、戦後に至るまで村政も施行されない、自治権のない島でした。そのような島であることから、開拓当初あった自然もプランテーションによるさとうきびの大規模栽培によってどんどん失われ、大正期には自然環境の再構築は生活を営む上で至上命題となりました。1920年に東洋製糖の製糖所所長に就任した江崎龍雄氏はこのような現状を危惧し、住民を交えての積極的な植林事業に乗り出しました。その成果もあって、現在、南大東の緑は豊かによみがえり、それを記念して、1929年10月、碑文が建てられました。この碑文には、東洋製糖のオーナーであった藤山雷太氏が揮毫(きごう)しており、当時の南大東島が抱えていた問題の深刻さと人々の努力とが同時に読み取ることができます。
開拓当初の南大東島は、ビロウを主体にタブノキ、リュウキュウガキ、ヤブニッケイ、ハマイヌビワ、ガジュマル、フカノキ等の大木がうっそうと茂った大密林でした。その後、開墾が進んで、焼き払いなどが日に日に行われ、また、製糖の燃料として、民家の建築材料として多くの材木が使用されたことから、玉置商会から東洋製糖に経営が移った1916年頃には、南大東島も赤裸々の姿と化しました。東洋製糖大東島製糖所初代所長の狩野時二は、島民に植林の必要性を説くとともに、防風林取り締まり規定を設け、防風林の保護と植樹の計画を立て、造林事業に熱意を見せました。そして、病没した狩野所長の後を継いで第2代所長となった江崎龍雄氏は、島民に、防風、衛生、風致上から森林の必要性を説くとともに、沖縄本島その他から種子、樹苗を移入して植林事業を推進しました。この植林事業は、1920年から始められ、1929年にはほぼ完了し、赤裸々と化した南大東島に再び緑が蘇るようになりました。
南大東神社の敷地にあります。
駐車場は神社鳥居前の広場をご利用ください。
南大東島は、1900年から私企業である玉置商会によって開拓された民間所有の島で、戦後に至るまで村政も施行されない、自治権のない島でした。そのような島であることから、開拓当初あった自然もプランテーションによるさとうきびの大規模栽培によってどんどん失われ、大正期には自然環境の再構築は生活を営む上で至上命題となりました。1920年に東洋製糖の製糖所所長に就任した江崎龍雄氏はこのような現状を危惧し、住民を交えての積極的な植林事業に乗り出しました。その成果もあって、現在、南大東の緑は豊かによみがえり、それを記念して、1929年10月、碑文が建てられました。この碑文には、東洋製糖のオーナーであった藤山雷太氏が揮毫(きごう)しており、当時の南大東島が抱えていた問題の深刻さと人々の努力とが同時に読み取ることができます。
開拓当初の南大東島は、ビロウを主体にタブノキ、リュウキュウガキ、ヤブニッケイ、ハマイヌビワ、ガジュマル、フカノキ等の大木がうっそうと茂った大密林でした。その後、開墾が進んで、焼き払いなどが日に日に行われ、また、製糖の燃料として、民家の建築材料として多くの材木が使用されたことから、玉置商会から東洋製糖に経営が移った1916年頃には、南大東島も赤裸々の姿と化しました。東洋製糖大東島製糖所初代所長の狩野時二は、島民に植林の必要性を説くとともに、防風林取り締まり規定を設け、防風林の保護と植樹の計画を立て、造林事業に熱意を見せました。そして、病没した狩野所長の後を継いで第2代所長となった江崎龍雄氏は、島民に、防風、衛生、風致上から森林の必要性を説くとともに、沖縄本島その他から種子、樹苗を移入して植林事業を推進しました。この植林事業は、1920年から始められ、1929年にはほぼ完了し、赤裸々と化した南大東島に再び緑が蘇るようになりました。
南大東神社の敷地にあります。
駐車場は神社鳥居前の広場をご利用ください。
〒901-3806
沖縄県南大東村池之沢