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上グスク(いーぐすく)

 組踊「多田名組」ゆかりの古城で、主郭の石積みと登る階段がひっそりと存在する雰囲気がいにしえのグスク時代の歴史を感じさせます。

住所

〒901-0515
沖縄県八重瀬町与座

上グスク(いーぐすく)

 組踊「多田名組」ゆかりの古城で、主郭の石積みと登る階段がひっそりと存在する雰囲気がいにしえのグスク時代の歴史を感じさせます。

 上グスク(いーぐすく)は、仲座集落・与座集落の南側標高約80mの丘陵に築かれた、山城形式の二つの郭からなる連郭式のグスクです。規模は12,300㎡で、13世紀後半から14世紀前半に築城されたと伝えられています。この城の城壁の石垣は、すべて野面積みの古い手法の積み方となっています。築城者は、仲座集落で頭角を現しリーダーとなった上原按司で、上村(与座村)と仲座村を治めていたとされています。当時、与座集落は上村と呼ばれていたので、これがグスクの名の由来となっています。上グスクの上原按司は、後に多々名按司に亡ぼされ、以後、上グスクは多々名按司の南山に対する前衛拠点になったとの伝承があります。また、多良間島の塩川に伝わる組踊で、このグスクを居城とした多々名按司にまつわる「多田名組」にも上原按司は登場します。

 組踊「多田名組」のあらすじは次のとおりとなっています。
 「多田名按司はライバルである上原按司を討ち滅ぼし、上原按司の夫人と若按司兄弟が逃げ出し仇討に来るのではと気にかけていました。そこで家臣の外間の子と謝名の子を呼び出し、諸国を巡り逃げた夫人と若按司等を根こそぎにしろと命令しました。これに対し外間の子は、上原按司夫人や若按司を殺し捨て去ることは悪名が立ち、大主の評判が下がるので、若按司を迎え厚く養育すれば、若按司も親の仇討をしようと思わないだろうし、万人も按司を称えること間違いなしと諫言しました。多田名按司は、外間の子の諫言に激怒し、謝名の子に引っ立て牢にでも押し込むよう命令しました。それでも、外間の子は命を懸け諫言を申し立てました。更に激怒した多田名按司は、刀を抜き外間の子を斬捨てしまいました。それを聞いた重臣の田名は、「あれほどの忠臣な外間の子を殺したのか」と詰め寄りますが、多田名按司は「お前もか」と激怒し、謝名の子に田名を牢屋にぶち込むよう命令し、謝名の子も実行しました。こうして、多田名按司は、自分に背く者がいなくなったことに満悦していました、謝名の子も「早く上原按司夫人と若按司を探し出し斬捨ててて憂いを断つよう」と進言しました。上原按司の長子千代松は母と弟金松と別になってしまい、このまま多田名按司の手にかかって死ぬよりは、母と弟に永遠の別れの挨拶をし自害しようと考えて、上原按司の家臣であった屋比久とヤカアにその事を告げました。2人は若按司に考え直すよう説得しましたが、千代松は、刀に手をかけ自害しようとしました。2人は急ぎ止め、仇討の計画を相談しました。千代松を城内に行かせ、時間を稼いで、屋比久が国頭の地で仲間を集め仇討の機を待つことにしました。千代松とヤカアは多田名グスクに赴き、按司に許しを請いました。多田名按司は、なぜ自ら(殺されに)来たのかと尋ねました。千代松は、「父は罪深きもので多田名按司に討たれて当然であり、そのことを恨んではいません。」と告げました。その言葉を聞いた多田名按司は大変喜んで宴会を催しました。城内で暮らしていた千代松でしたが、母と弟が苦しんでいる姿を夢で見て、秘かに城を抜け出し2人を捜しに出ました。村はずれで2人に再開した千代松は、仇討の計画を話し、もう暫く我慢するように伝えました。城へ戻った千代松の耳に、多田名按司が津堅島へ遊びに出る話が入りました。千代松はそのことを間者を使って国頭の屋比久へ伝えました。多田名按司が津堅島からの遊びの帰り、千代松と屋比久の仲間が道中で待ち伏せし、多田名按司と謝名の子を捕らえ仇討を果たしました。」

 本丸の奥には石垣に囲まれた上城之嶽(ウィーグシクヌウタキ、仲座之嶽)(神名アカズ森之御イべ)があります。
 岩盤がむき出しの部分があるので注意してください。
 ハブに注意してください。

 上グスク(いーぐすく)は、仲座集落・与座集落の南側標高約80mの丘陵に築かれた、山城形式の二つの郭からなる連郭式のグスクです。規模は12,300㎡で、13世紀後半から14世紀前半に築城されたと伝えられています。この城の城壁の石垣は、すべて野面積みの古い手法の積み方となっています。築城者は、仲座集落で頭角を現しリーダーとなった上原按司で、上村(与座村)と仲座村を治めていたとされています。当時、与座集落は上村と呼ばれていたので、これがグスクの名の由来となっています。上グスクの上原按司は、後に多々名按司に亡ぼされ、以後、上グスクは多々名按司の南山に対する前衛拠点になったとの伝承があります。また、多良間島の塩川に伝わる組踊で、このグスクを居城とした多々名按司にまつわる「多田名組」にも上原按司は登場します。

 組踊「多田名組」のあらすじは次のとおりとなっています。
 「多田名按司はライバルである上原按司を討ち滅ぼし、上原按司の夫人と若按司兄弟が逃げ出し仇討に来るのではと気にかけていました。そこで家臣の外間の子と謝名の子を呼び出し、諸国を巡り逃げた夫人と若按司等を根こそぎにしろと命令しました。これに対し外間の子は、上原按司夫人や若按司を殺し捨て去ることは悪名が立ち、大主の評判が下がるので、若按司を迎え厚く養育すれば、若按司も親の仇討をしようと思わないだろうし、万人も按司を称えること間違いなしと諫言しました。多田名按司は、外間の子の諫言に激怒し、謝名の子に引っ立て牢にでも押し込むよう命令しました。それでも、外間の子は命を懸け諫言を申し立てました。更に激怒した多田名按司は、刀を抜き外間の子を斬捨てしまいました。それを聞いた重臣の田名は、「あれほどの忠臣な外間の子を殺したのか」と詰め寄りますが、多田名按司は「お前もか」と激怒し、謝名の子に田名を牢屋にぶち込むよう命令し、謝名の子も実行しました。こうして、多田名按司は、自分に背く者がいなくなったことに満悦していました、謝名の子も「早く上原按司夫人と若按司を探し出し斬捨ててて憂いを断つよう」と進言しました。上原按司の長子千代松は母と弟金松と別になってしまい、このまま多田名按司の手にかかって死ぬよりは、母と弟に永遠の別れの挨拶をし自害しようと考えて、上原按司の家臣であった屋比久とヤカアにその事を告げました。2人は若按司に考え直すよう説得しましたが、千代松は、刀に手をかけ自害しようとしました。2人は急ぎ止め、仇討の計画を相談しました。千代松を城内に行かせ、時間を稼いで、屋比久が国頭の地で仲間を集め仇討の機を待つことにしました。千代松とヤカアは多田名グスクに赴き、按司に許しを請いました。多田名按司は、なぜ自ら(殺されに)来たのかと尋ねました。千代松は、「父は罪深きもので多田名按司に討たれて当然であり、そのことを恨んではいません。」と告げました。その言葉を聞いた多田名按司は大変喜んで宴会を催しました。城内で暮らしていた千代松でしたが、母と弟が苦しんでいる姿を夢で見て、秘かに城を抜け出し2人を捜しに出ました。村はずれで2人に再開した千代松は、仇討の計画を話し、もう暫く我慢するように伝えました。城へ戻った千代松の耳に、多田名按司が津堅島へ遊びに出る話が入りました。千代松はそのことを間者を使って国頭の屋比久へ伝えました。多田名按司が津堅島からの遊びの帰り、千代松と屋比久の仲間が道中で待ち伏せし、多田名按司と謝名の子を捕らえ仇討を果たしました。」

 本丸の奥には石垣に囲まれた上城之嶽(ウィーグシクヌウタキ、仲座之嶽)(神名アカズ森之御イべ)があります。
 岩盤がむき出しの部分があるので注意してください。
 ハブに注意してください。

〒901-0515
沖縄県八重瀬町与座