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宜野座ヌ古島遺跡(大川グシク跡)

 宜野座ヌ古島遺跡は「大川グシク」とも呼ばれ、宜野座村地域で唯一の石積みを伴うグスクです。また、かつての宜野座村(現在の宜野座区)があった場所であり、集落の大切な拝所が集中する場所となっています。

住所

〒904-1302
沖縄県宜野座村宜野座

宜野座ヌ古島遺跡(大川グシク跡)

 宜野座ヌ古島遺跡は「大川グシク」とも呼ばれ、宜野座村地域で唯一の石積みを伴うグスクです。また、かつての宜野座村(現在の宜野座区)があった場所であり、集落の大切な拝所が集中する場所となっています。

 宜野座ヌ古島遺跡は、貝塚時代前期(縄文時代後期)・中期(縄文時代晩期)・後期(弥生~平安時代)・グスク時代(中世)・琉球王府時代(近世)の遺跡で、現在も宜野座ヌンドゥルチ(ノロ殿内)や神アシャギなど宜野座の集落にとって大切な拝所が集中する場所となっています。また、本遺跡は、「大川グシク」とも呼ばれ、宜野座村地域で唯一の石積みを伴うグスクであり、「大川按司の屋敷跡」と伝わる場所もあります。宜野座ヌ古島遺跡(大川グシク跡)の歴史的な変遷を通して、貝塚時代中期(縄文時代晩期)に人々の生活圏が臨海地から石灰岩丘陵台地の高台に変わっていったこと、その後、貝塚時代後期(弥生~平安時代)には再び臨海地に戻ったこと、そして、グスク時代になると外敵からの防御を意識し、再び石灰岩丘陵台地に生活の場を移し、グスクを築いたことを窺い知ることができます。

 宜野座村教育委員会の発掘調査では、貝塚時代前期~後期(縄文時代後期~平安時代)の土器、グスク時代(中世)の中国産・タイ産の陶磁器(青磁・白磁・青花・褐釉陶器)、琉球王府時代(近世)の本土産磁器(肥前系陶磁器など)や沖縄産陶器が大量に出土しているため、長期に渡り、当地が人々に利用されていたことがわかります。また、奄美系の土器・鹿児島産の黒曜石・徳之島産のカムィヤキ・中国産やタイ産の陶磁器・中国の古銭・佐賀県産の肥前系陶磁器など本村地域の外から持ち込まれた遺物も出土しているため、当時の人々が直接または間接的に他地域と交流していたことがわかります。現在、宜野座ヌンドゥルチの拝所にまつられている「コバヅカサワライヂュウノオイベ」と彫られた石は、1713年に琉球王府が編纂した『琉球国由来記』に記されている「ヨリフサノ嶽」の神名に類似しますが、1980年頃に本来の御嶽があったとされる西方の谷をはさんだ石灰岩丘陵台地(現在の宜野座発祥の碑の周辺)から移したものと記録されています。

 草むらや石垣にはハブがいる可能性があります。注意してください。

 宜野座ヌ古島遺跡は、貝塚時代前期(縄文時代後期)・中期(縄文時代晩期)・後期(弥生~平安時代)・グスク時代(中世)・琉球王府時代(近世)の遺跡で、現在も宜野座ヌンドゥルチ(ノロ殿内)や神アシャギなど宜野座の集落にとって大切な拝所が集中する場所となっています。また、本遺跡は、「大川グシク」とも呼ばれ、宜野座村地域で唯一の石積みを伴うグスクであり、「大川按司の屋敷跡」と伝わる場所もあります。宜野座ヌ古島遺跡(大川グシク跡)の歴史的な変遷を通して、貝塚時代中期(縄文時代晩期)に人々の生活圏が臨海地から石灰岩丘陵台地の高台に変わっていったこと、その後、貝塚時代後期(弥生~平安時代)には再び臨海地に戻ったこと、そして、グスク時代になると外敵からの防御を意識し、再び石灰岩丘陵台地に生活の場を移し、グスクを築いたことを窺い知ることができます。

 宜野座村教育委員会の発掘調査では、貝塚時代前期~後期(縄文時代後期~平安時代)の土器、グスク時代(中世)の中国産・タイ産の陶磁器(青磁・白磁・青花・褐釉陶器)、琉球王府時代(近世)の本土産磁器(肥前系陶磁器など)や沖縄産陶器が大量に出土しているため、長期に渡り、当地が人々に利用されていたことがわかります。また、奄美系の土器・鹿児島産の黒曜石・徳之島産のカムィヤキ・中国産やタイ産の陶磁器・中国の古銭・佐賀県産の肥前系陶磁器など本村地域の外から持ち込まれた遺物も出土しているため、当時の人々が直接または間接的に他地域と交流していたことがわかります。現在、宜野座ヌンドゥルチの拝所にまつられている「コバヅカサワライヂュウノオイベ」と彫られた石は、1713年に琉球王府が編纂した『琉球国由来記』に記されている「ヨリフサノ嶽」の神名に類似しますが、1980年頃に本来の御嶽があったとされる西方の谷をはさんだ石灰岩丘陵台地(現在の宜野座発祥の碑の周辺)から移したものと記録されています。

 草むらや石垣にはハブがいる可能性があります。注意してください。

〒904-1302
沖縄県宜野座村宜野座

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