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与那海岸、与那の高坂(たかひら)

 座津武(ざつん)、戻る道と並んで、古くから交通上の難所とされているところであり、沖縄本島北部の道路事情の厳しさをうかがい知ることができる地です。

住所

〒905-1427
沖縄県国頭村与那

与那海岸、与那の高坂(たかひら)

 座津武(ざつん)、戻る道と並んで、古くから交通上の難所とされているところであり、沖縄本島北部の道路事情の厳しさをうかがい知ることができる地です。

 与那海岸の付近は、険しい山が海の近くまで迫っており、しかも、浜の沖にはリーフが発達していないことから、台風時などには高波が浜に押し寄せるなど、国頭村でも有数の交通の難所でした。1910年代初頭までは、山の上を通る「与那の高坂(たかひら)」と呼ばれる険しい獣道が使われたりしましたが、1934年になって、辺土名(へんとな)から奥を結ぶ、海沿いを走る県道が開通し、車の通行がようやく可能になりました。その後も高波で人や車が流されたり、岩石の崩落があったりしたことから、1973年1月開通の旧与勝トンネル(全長159m)を経て、1995年2月、全長559mの新与勝トンネルが開通したことにより、ようやく、この地域の交通事情は改善されました。与那海岸では、旧与勝トンネルに至る旧道が残されており、トンネルの近くまで散策することができます。また、その途中から、1934年に開通した旧県道跡の遺構を見ることができます。

 与那の高坂は、座津武、戻る道と合わせて、国頭村の三大交通難所に数えられていました。急で険しい登り坂が1㎞ほど続く高坂は、王府時代の宿道の一部で、小学校のある辺土名へ向かうためには、この道を徒歩で行くしかありませんでした。1917年、国頭村道として、海岸斜面の中ほどに、荷馬車が通れる広さの道が開通し、「中道(なかみち)」と呼ばれました。しかし自動車が通れるほどの広さではありませんでした。1935年になると、海岸沿いを回る「県道」が開通しました。道幅は5mで、この時点で初めてバスの通行も可能になりました。しかし、海岸沿いを通る道のため、天候が荒れると高波が襲い、冬場には10mの波が襲う地点が数か所もありました。事実、戦後にはトラックが波に押しつぶされ、運転手が死亡する事故も起きたといわれています。辺土名小学校に通学する子供たちは、波のかかる合間を見計らい、道を駆け抜けて通学していました。このように日々の通行にもかなりの危険が伴うため、とても近代の交通を支える道とはいきませんでした。1973年1月、ついに「与那トンネル」が開通し、これまでのように通行する人が危険にさらされることはほとんどなくなり、生活道路、産業道路として利用されるようになりました。しかしながら、トンネル北側はまだ波浪が激しく、山側のがけが崩れる危険性もあって、通行規制区間として指定されていました。地域の生活基盤を支える国道としては、まだ不安の残る部分がありました。こうした問題を解消するため、1991年、新与那トンネルの工事が始まりました。それまでのルートよりも山側を通るよう計画されたのは、波による危険を減らすためです。トンネルは3年がかりの工事となり、1994年に完成しました。延長はそれまでの159mから559m(幅員6.5m)と格段に伸びました。

 国道58号沿いの左手に少し小高いところに与那節の歌碑が建っています。碑には、「与那(ゆな)の高ひらや 汗(あし)はてどぅぬぶる 無蔵(んぞ)にうみなしば車とぅばる 無蔵と二人なりば 一足なから」(大意:与那の急な坂を、汗をかきながら登る。愛しい貴方と一緒なら、車も通れる平坦な道と変わらない。愛しい貴方と二人だったら、一足で越えられる。)と刻まれています。古典音楽の「与那節」は、地元ではウシデーク歌の中で歌い継がれています。
 旧与勝トンネルは、ヘリオス酒造が貯蔵庫として使用しています。
 旧県道の近くまで行くのは危険です。遠くから見るのにとどめてください。

 与那海岸の付近は、険しい山が海の近くまで迫っており、しかも、浜の沖にはリーフが発達していないことから、台風時などには高波が浜に押し寄せるなど、国頭村でも有数の交通の難所でした。1910年代初頭までは、山の上を通る「与那の高坂(たかひら)」と呼ばれる険しい獣道が使われたりしましたが、1934年になって、辺土名(へんとな)から奥を結ぶ、海沿いを走る県道が開通し、車の通行がようやく可能になりました。その後も高波で人や車が流されたり、岩石の崩落があったりしたことから、1973年1月開通の旧与勝トンネル(全長159m)を経て、1995年2月、全長559mの新与勝トンネルが開通したことにより、ようやく、この地域の交通事情は改善されました。与那海岸では、旧与勝トンネルに至る旧道が残されており、トンネルの近くまで散策することができます。また、その途中から、1934年に開通した旧県道跡の遺構を見ることができます。

 与那の高坂は、座津武、戻る道と合わせて、国頭村の三大交通難所に数えられていました。急で険しい登り坂が1㎞ほど続く高坂は、王府時代の宿道の一部で、小学校のある辺土名へ向かうためには、この道を徒歩で行くしかありませんでした。1917年、国頭村道として、海岸斜面の中ほどに、荷馬車が通れる広さの道が開通し、「中道(なかみち)」と呼ばれました。しかし自動車が通れるほどの広さではありませんでした。1935年になると、海岸沿いを回る「県道」が開通しました。道幅は5mで、この時点で初めてバスの通行も可能になりました。しかし、海岸沿いを通る道のため、天候が荒れると高波が襲い、冬場には10mの波が襲う地点が数か所もありました。事実、戦後にはトラックが波に押しつぶされ、運転手が死亡する事故も起きたといわれています。辺土名小学校に通学する子供たちは、波のかかる合間を見計らい、道を駆け抜けて通学していました。このように日々の通行にもかなりの危険が伴うため、とても近代の交通を支える道とはいきませんでした。1973年1月、ついに「与那トンネル」が開通し、これまでのように通行する人が危険にさらされることはほとんどなくなり、生活道路、産業道路として利用されるようになりました。しかしながら、トンネル北側はまだ波浪が激しく、山側のがけが崩れる危険性もあって、通行規制区間として指定されていました。地域の生活基盤を支える国道としては、まだ不安の残る部分がありました。こうした問題を解消するため、1991年、新与那トンネルの工事が始まりました。それまでのルートよりも山側を通るよう計画されたのは、波による危険を減らすためです。トンネルは3年がかりの工事となり、1994年に完成しました。延長はそれまでの159mから559m(幅員6.5m)と格段に伸びました。

 国道58号沿いの左手に少し小高いところに与那節の歌碑が建っています。碑には、「与那(ゆな)の高ひらや 汗(あし)はてどぅぬぶる 無蔵(んぞ)にうみなしば車とぅばる 無蔵と二人なりば 一足なから」(大意:与那の急な坂を、汗をかきながら登る。愛しい貴方と一緒なら、車も通れる平坦な道と変わらない。愛しい貴方と二人だったら、一足で越えられる。)と刻まれています。古典音楽の「与那節」は、地元ではウシデーク歌の中で歌い継がれています。
 旧与勝トンネルは、ヘリオス酒造が貯蔵庫として使用しています。
 旧県道の近くまで行くのは危険です。遠くから見るのにとどめてください。

〒905-1427
沖縄県国頭村与那