集団自決跡地
戦時中に島民が集団自決した地で、石碑が建立(平成5年3月28日)され、自決地の全体像を示した案内板があります。
住所
〒901-3501
沖縄県渡嘉敷村渡嘉敷
字渡嘉敷2772の国立沖縄青少年交流の家の隣接地にあります。
太平洋戦争下の1945年3月23日、米軍による猛烈な空襲が始まり、24日には海峡から渡嘉敷への艦砲射撃、27日に阿波連海浜と渡嘉志久海浜から渡嘉敷島に上陸しました。日本軍の統治下にあった住民は、軍命により山裾の避難壕を離れ、雨の降りしきる27日深夜、北山(にしやま)方向への移動を始めました。翌28日、日本軍陣地の近くの谷間などに集結した住民に軍からの自決命令の情報が伝えられ、自決が始まりました。手りゅう弾だけではなく、小銃、かま、くわ、かみそり、縄等、あらゆる手段で親子兄弟の殺し合いを試み、この世の出来事とは思えない凄惨な状況の中で自らの命を絶っていきました。この時死亡した島民は330人であり、一家全滅は74世帯にも及びます。集団自決跡地として整備された箇所の他に、第二自決地(現在は野球場となっている)もありました。集団自決の道程にはまだ十分に検証されていない疑問が残されています。
渡嘉敷港から車で5分ほどの、国立沖縄青少年交流の家の敷地内から入って行きます。
出入口の扉はしっかり閉めてください。
村指定文化財:史跡(平成17年11月30日指定)
字渡嘉敷2772の国立沖縄青少年交流の家の隣接地にあります。
太平洋戦争下の1945年3月23日、米軍による猛烈な空襲が始まり、24日には海峡から渡嘉敷への艦砲射撃、27日に阿波連海浜と渡嘉志久海浜から渡嘉敷島に上陸しました。日本軍の統治下にあった住民は、軍命により山裾の避難壕を離れ、雨の降りしきる27日深夜、北山(にしやま)方向への移動を始めました。翌28日、日本軍陣地の近くの谷間などに集結した住民に軍からの自決命令の情報が伝えられ、自決が始まりました。手りゅう弾だけではなく、小銃、かま、くわ、かみそり、縄等、あらゆる手段で親子兄弟の殺し合いを試み、この世の出来事とは思えない凄惨な状況の中で自らの命を絶っていきました。この時死亡した島民は330人であり、一家全滅は74世帯にも及びます。集団自決跡地として整備された箇所の他に、第二自決地(現在は野球場となっている)もありました。集団自決の道程にはまだ十分に検証されていない疑問が残されています。
渡嘉敷港から車で5分ほどの、国立沖縄青少年交流の家の敷地内から入って行きます。
出入口の扉はしっかり閉めてください。
村指定文化財:史跡(平成17年11月30日指定)
〒901-3501
沖縄県渡嘉敷村渡嘉敷