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運天トンネル

 かつて集落と役場をつないでいた大事なトンネルです。

住所

〒905-0403
沖縄県今帰仁村運天

運天トンネル

 かつて集落と役場をつないでいた大事なトンネルです。

 運天トンネルは長さ17.5m、幅5m、高さ4mで1924(大正13)年に古宇利島への渡し舟の接岸場所だった運天港へ抜ける道として造られました。陸上輸送が盛んになる時期に、トンネルも大きな役割を果たしたといわれています。かつては、臨海道路ができるまで路線バスがトンネルを通過していました。朝1番のバスは古宇利からの客や高校生で満員でした。戦後、米軍の駐留時代はトンネルに鎖が掛けられ、ムラウチに入れない時期もありました。現在のトンネルは、1997(平成9)年10月に補修・竣工したもので、トンネルの手前から「運天散策道」があり、展望台から古宇利島や大橋、屋我地島、ワルミ大橋など絶景が広がっています。

 1908(明治41)年、琉球王府時代の名残だった間切制度から町村制度に改められました。これまで国の負担だった道路整備の予算が県に移され、急速に道路整備が進むようになると、1915(大正4)年、最大の街道である国頭街道(那覇-今帰仁)が開通しました。
 国頭郡ではこの国頭街道の開通に呼応して、地域の発展、農業の発展のために組合を組織して道路の整備改修に取り組むようになります。この道は郡道と呼ばれ、大正時代の頃からは山原でも車が走り始め、それまでの荷車や馬車が通る狭い道から車が通れるように道路が広げられ整備されていきました。
 郡道の整備事業は、これまで中心だった海上交通から陸上交通への転換を示す大きな出来事でした。そのことは、1916(大正5)年まで運天にあった今帰仁村役場(番所)が村の中央にあたる仲宗根へ移転する大きな要因にもなりました。車が今帰仁へ往来するようになると、運天港への道を整備する必要性に迫られ、そのことが隧道(ずいどう)の開削につながったとみられます。

 トンネルが掘られる以前は、丘陵地のきつい坂道を上り下りして運搬していましたが、トンネルが開通したことで馬車やリヤカーが運天港のムラウチまで行けるようになり、物の運搬がとても便利になりました。

 運天トンネルは長さ17.5m、幅5m、高さ4mで1924(大正13)年に古宇利島への渡し舟の接岸場所だった運天港へ抜ける道として造られました。陸上輸送が盛んになる時期に、トンネルも大きな役割を果たしたといわれています。かつては、臨海道路ができるまで路線バスがトンネルを通過していました。朝1番のバスは古宇利からの客や高校生で満員でした。戦後、米軍の駐留時代はトンネルに鎖が掛けられ、ムラウチに入れない時期もありました。現在のトンネルは、1997(平成9)年10月に補修・竣工したもので、トンネルの手前から「運天散策道」があり、展望台から古宇利島や大橋、屋我地島、ワルミ大橋など絶景が広がっています。

 1908(明治41)年、琉球王府時代の名残だった間切制度から町村制度に改められました。これまで国の負担だった道路整備の予算が県に移され、急速に道路整備が進むようになると、1915(大正4)年、最大の街道である国頭街道(那覇-今帰仁)が開通しました。
 国頭郡ではこの国頭街道の開通に呼応して、地域の発展、農業の発展のために組合を組織して道路の整備改修に取り組むようになります。この道は郡道と呼ばれ、大正時代の頃からは山原でも車が走り始め、それまでの荷車や馬車が通る狭い道から車が通れるように道路が広げられ整備されていきました。
 郡道の整備事業は、これまで中心だった海上交通から陸上交通への転換を示す大きな出来事でした。そのことは、1916(大正5)年まで運天にあった今帰仁村役場(番所)が村の中央にあたる仲宗根へ移転する大きな要因にもなりました。車が今帰仁へ往来するようになると、運天港への道を整備する必要性に迫られ、そのことが隧道(ずいどう)の開削につながったとみられます。

 トンネルが掘られる以前は、丘陵地のきつい坂道を上り下りして運搬していましたが、トンネルが開通したことで馬車やリヤカーが運天港のムラウチまで行けるようになり、物の運搬がとても便利になりました。

〒905-0403
沖縄県今帰仁村運天

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