平郎門前にあるリュウキュウマツには銃撃の痕が複数箇所残っています。中には弾丸が残っている穴もあります。沖縄県内北部地域は中南部地域に比較して戦争被害は大きくありませんが、日本軍は本部半島にも部隊を配置し太平洋戦争に備えていました。今帰仁城跡内における発掘調査では塹壕跡が確認されています。
独立混成第44旅団、独立混成第15連隊(通称:美田部隊)が作成した『昭和19年陣中日誌綴』には「第1大隊は本部守備隊となり一部を以て桃原北方付近に前進陣地を、主力を以て北山城跡付近・207・237屋比久原付近に各々撃滅拠点を構築すべし」と、今帰仁城跡付近に陣地を構築していたとする記述を確認することができます。なお、当該部隊はその後、伊江島に拠点を移し玉砕したとされています。
外郭南側には土を掘り込んだ痕跡が残っており、「グスク時代の堀切」があるとされていたが、発掘調査によって塹壕であることがわかりました。
平郎門前にあるリュウキュウマツには銃撃の痕が複数箇所残っています。中には弾丸が残っている穴もあります。沖縄県内北部地域は中南部地域に比較して戦争被害は大きくありませんが、日本軍は本部半島にも部隊を配置し太平洋戦争に備えていました。今帰仁城跡内における発掘調査では塹壕跡が確認されています。
独立混成第44旅団、独立混成第15連隊(通称:美田部隊)が作成した『昭和19年陣中日誌綴』には「第1大隊は本部守備隊となり一部を以て桃原北方付近に前進陣地を、主力を以て北山城跡付近・207・237屋比久原付近に各々撃滅拠点を構築すべし」と、今帰仁城跡付近に陣地を構築していたとする記述を確認することができます。なお、当該部隊はその後、伊江島に拠点を移し玉砕したとされています。
外郭南側には土を掘り込んだ痕跡が残っており、「グスク時代の堀切」があるとされていたが、発掘調査によって塹壕であることがわかりました。
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沖縄県今帰仁村今泊