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尚泰久(しょうたいきゅう)王の墓

 尚泰久王に関連する墓です。

住所

〒901-0611
沖縄県南城市玉城富里

尚泰久(しょうたいきゅう)王の墓

 尚泰久王に関連する墓です。

 尚泰久と安次富金橋(あしとみかなはし(安次富加那巴志、安次富金巴志))の墓は、国道331号から旧玉城村役場に向かう道の途中にあります。
第一尚氏王統六代目の王・尚泰久王の墓は、三男の尚徳王が亡びし時に、その難を避けるため首里天山の霊御殿から乳母の地美里村伊波に移されており、人目を避けるために乞食墓(こつじきばか)と称して所在を隠していましたが、1908(明治41)年に氏子によって尚泰久の長男である安次富金橋の墓の隣りに移されました。

 第一尚氏王統六代目の王・尚泰久王は、三男の尚徳に王位を継がせました。尚徳王は、喜界島に遠征した一例から英雄であったようですが、久高島の神女クニチャサとの愛におぼれ、久高島参拝中に王府内乱によって滅び、第一尚氏は七代六十四年にして第二尚氏の王統に変わりました。しかし、三男の尚徳が王に就くとこれを不満とした長男の安次富金橋、二男の三津葉多武喜(みつばたぶき)は叔父の尚布里(しょうふり)を頼って田舎下りしました。その際、仮住まいした場所は富里の屋号大仲栄真の後ろにある岩陰であり、ここに長男の安次富金橋、二男の三津葉多武喜、四男の八幡加那志(はちまんがなしー)が仮住まいしましたが、風格や態度、田舎人と違った人々の住居であったため、当時、周囲の人々はこの場所を「主ヌ前殿内」と称えたといいます。
戦前までは岩陰に「三つかま」「火の神」の跡もあり、敷居跡らしき古木の埋まった跡などもみられましたが、沖縄戦時中に多くの人々が避難していたため荒らされ、遺跡は残っていません。現在は拝所であり、五月稲穂御祭りの際には氏子やノロなどが祭事を行っています。
その後、長男の安次富金橋は「安次富城」、二男の三津葉多武喜は「大川城」、四男の八幡加那志は「仲栄真城」にそれぞれ移り住みました。しかし、城を構えた場所は岩上でここでの永住は至難だと判断したのか、安次富金橋は安次富城隣りにある現在の屋良家の屋敷に、三津葉多武喜は富里の大仲栄真の屋敷に永住地を移したとされます。
現在その位碑は、安次富金橋は當山の屋良に、三津葉多武喜は富里の仲栄真に八幡加那志は富里の大仲栄真にそれぞれまつられています。

 駐車場(無料)有り・トイレ無し。
 個人所有地となっています。

 尚泰久と安次富金橋(あしとみかなはし(安次富加那巴志、安次富金巴志))の墓は、国道331号から旧玉城村役場に向かう道の途中にあります。
第一尚氏王統六代目の王・尚泰久王の墓は、三男の尚徳王が亡びし時に、その難を避けるため首里天山の霊御殿から乳母の地美里村伊波に移されており、人目を避けるために乞食墓(こつじきばか)と称して所在を隠していましたが、1908(明治41)年に氏子によって尚泰久の長男である安次富金橋の墓の隣りに移されました。

 第一尚氏王統六代目の王・尚泰久王は、三男の尚徳に王位を継がせました。尚徳王は、喜界島に遠征した一例から英雄であったようですが、久高島の神女クニチャサとの愛におぼれ、久高島参拝中に王府内乱によって滅び、第一尚氏は七代六十四年にして第二尚氏の王統に変わりました。しかし、三男の尚徳が王に就くとこれを不満とした長男の安次富金橋、二男の三津葉多武喜(みつばたぶき)は叔父の尚布里(しょうふり)を頼って田舎下りしました。その際、仮住まいした場所は富里の屋号大仲栄真の後ろにある岩陰であり、ここに長男の安次富金橋、二男の三津葉多武喜、四男の八幡加那志(はちまんがなしー)が仮住まいしましたが、風格や態度、田舎人と違った人々の住居であったため、当時、周囲の人々はこの場所を「主ヌ前殿内」と称えたといいます。
戦前までは岩陰に「三つかま」「火の神」の跡もあり、敷居跡らしき古木の埋まった跡などもみられましたが、沖縄戦時中に多くの人々が避難していたため荒らされ、遺跡は残っていません。現在は拝所であり、五月稲穂御祭りの際には氏子やノロなどが祭事を行っています。
その後、長男の安次富金橋は「安次富城」、二男の三津葉多武喜は「大川城」、四男の八幡加那志は「仲栄真城」にそれぞれ移り住みました。しかし、城を構えた場所は岩上でここでの永住は至難だと判断したのか、安次富金橋は安次富城隣りにある現在の屋良家の屋敷に、三津葉多武喜は富里の大仲栄真の屋敷に永住地を移したとされます。
現在その位碑は、安次富金橋は當山の屋良に、三津葉多武喜は富里の仲栄真に八幡加那志は富里の大仲栄真にそれぞれまつられています。

 駐車場(無料)有り・トイレ無し。
 個人所有地となっています。

〒901-0611
沖縄県南城市玉城富里