旧海軍司令部壕
沖縄駐在の海軍の司令部として構築された壕で、最高機密の壕のため、民間人は一切動員されず、専属の部隊によって構築されました。当時の痕跡が生々しく残っています。
沖縄戦において大日本帝国海軍の司令部として使用された防空壕です。戦後は旧海軍司令部壕としてその一部が一般に公開され、周辺は海軍壕公園として整備されています。豊見城市と那覇市の市境に位置しています。
枝分かれした全長約450mの坑道といくつかの部屋からなり、砲撃に耐えられるよう重要な部屋はコンクリートや漆喰で補強されています。坑道の壁には建設時につるはしで削っていった跡が残されています。1953年3月、戦争で生き残った元海軍部隊隊員が司令部壕跡を訪れた時、入口は崩壊し坑内には泥水が溜まっている有様でした。壕内からは大田司令官を始めとして800名以上の遺骨が収集されました。1958年には更に1,500名以上の遺骨が収集され、沖縄海友会によって海軍慰霊之塔が建立されました。1970年3月、司令官室を中心に壕内の300mが復元され、一般に公開されました。公開されている旧海軍司令部壕の内容は次のとおりです。
【作戦室】作戦を練る重要な部屋で、壁をコンクリートと漆喰で固めた7.5㎡の広さの長方形の部屋です。
【幕僚室】司令部参謀など幕僚らが詰めた10㎡位のコンクリート壁の部屋です。司令官室、作戦室に近いこの部屋は、幕僚が自決した手榴弾の破片の痕跡が生々しく残っています。
【司令官室】沖縄方面根拠地隊大田司令官の部屋です。東西に伸びる両方の通路ともつながっており、部屋に入る途中には衛兵の待機所もあります。壁面には、「大君の御はたのもとに死してこそ人と生まれし甲斐ぞありけり」の墨書が残されています。
【暗号室】戦況等の上層部への報告、連絡等の電報発受信に使用された17㎡の広さの部屋です。発信受信は暗号で行われ、ここから約2,900通の電報が発信されました。
【医療室】生存者の話では、この部屋を中心にたくさんの負傷兵がいたということから、「医療室」だと推定されています。7.5㎡の広さがあり、当時、負傷兵用の二段ベッドが置かれていました。
【下士官室・兵員室】壕内に2か所、それぞれ13㎡の広さがあり、兵士が休息するために使われました。戦闘が激化した時期には、壕内に4,000名もの兵が集まり坑道も事実上の兵員室となっていました。このような中で多くの兵士は立ったまま睡眠を取る有様でした。
【発電室】壕内に3か所、それぞれ5㎡の広さがあり発電機が置かれていました。
1944年、太平洋戦争において日本軍の敗色が濃厚となり、戦線が南西諸島付近まで後退したため、最前線となった沖縄の軍備が強化されることになりました。沖縄における重要な軍事拠点の一つであった小禄飛行場(後の那覇空港)を守るための防空壕を建設することになり、飛行場を南東から見下ろす標高74mの火番森あるいは七四高地と呼ばれる丘が選定されました。
司令部壕は1944年8月10日に着工されましたが、本格的な工事は10月10日の十・十空襲以降に始められ同年12月に完成しました。海軍第226設営隊(山根部隊)の約3,000名が設営にあたり、ほとんどの工事はつるはしなどを用いた手作業で行われました。小禄地区周辺にはこの他にも多数の防空壕が建設され多くの住民が動員されましたが、海軍司令部壕は最高軍事機密であったため民間人は近付くことも許されず、工事は軍隊の手のみによって構築されました。
併設されている旧海軍司令部壕資料館には、壕内で発見された遺品などが展示されています。また、太田司令官が海軍次官に宛てた「・・・沖縄県民斯ク戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノ 御高配ヲ 賜ランコトヲ」という電報も残っています。
http://kaigungou.ocvb.or.jp/
沖縄戦において大日本帝国海軍の司令部として使用された防空壕です。戦後は旧海軍司令部壕としてその一部が一般に公開され、周辺は海軍壕公園として整備されています。豊見城市と那覇市の市境に位置しています。
枝分かれした全長約450mの坑道といくつかの部屋からなり、砲撃に耐えられるよう重要な部屋はコンクリートや漆喰で補強されています。坑道の壁には建設時につるはしで削っていった跡が残されています。1953年3月、戦争で生き残った元海軍部隊隊員が司令部壕跡を訪れた時、入口は崩壊し坑内には泥水が溜まっている有様でした。壕内からは大田司令官を始めとして800名以上の遺骨が収集されました。1958年には更に1,500名以上の遺骨が収集され、沖縄海友会によって海軍慰霊之塔が建立されました。1970年3月、司令官室を中心に壕内の300mが復元され、一般に公開されました。公開されている旧海軍司令部壕の内容は次のとおりです。
【作戦室】作戦を練る重要な部屋で、壁をコンクリートと漆喰で固めた7.5㎡の広さの長方形の部屋です。
【幕僚室】司令部参謀など幕僚らが詰めた10㎡位のコンクリート壁の部屋です。司令官室、作戦室に近いこの部屋は、幕僚が自決した手榴弾の破片の痕跡が生々しく残っています。
【司令官室】沖縄方面根拠地隊大田司令官の部屋です。東西に伸びる両方の通路ともつながっており、部屋に入る途中には衛兵の待機所もあります。壁面には、「大君の御はたのもとに死してこそ人と生まれし甲斐ぞありけり」の墨書が残されています。
【暗号室】戦況等の上層部への報告、連絡等の電報発受信に使用された17㎡の広さの部屋です。発信受信は暗号で行われ、ここから約2,900通の電報が発信されました。
【医療室】生存者の話では、この部屋を中心にたくさんの負傷兵がいたということから、「医療室」だと推定されています。7.5㎡の広さがあり、当時、負傷兵用の二段ベッドが置かれていました。
【下士官室・兵員室】壕内に2か所、それぞれ13㎡の広さがあり、兵士が休息するために使われました。戦闘が激化した時期には、壕内に4,000名もの兵が集まり坑道も事実上の兵員室となっていました。このような中で多くの兵士は立ったまま睡眠を取る有様でした。
【発電室】壕内に3か所、それぞれ5㎡の広さがあり発電機が置かれていました。
1944年、太平洋戦争において日本軍の敗色が濃厚となり、戦線が南西諸島付近まで後退したため、最前線となった沖縄の軍備が強化されることになりました。沖縄における重要な軍事拠点の一つであった小禄飛行場(後の那覇空港)を守るための防空壕を建設することになり、飛行場を南東から見下ろす標高74mの火番森あるいは七四高地と呼ばれる丘が選定されました。
司令部壕は1944年8月10日に着工されましたが、本格的な工事は10月10日の十・十空襲以降に始められ同年12月に完成しました。海軍第226設営隊(山根部隊)の約3,000名が設営にあたり、ほとんどの工事はつるはしなどを用いた手作業で行われました。小禄地区周辺にはこの他にも多数の防空壕が建設され多くの住民が動員されましたが、海軍司令部壕は最高軍事機密であったため民間人は近付くことも許されず、工事は軍隊の手のみによって構築されました。
併設されている旧海軍司令部壕資料館には、壕内で発見された遺品などが展示されています。また、太田司令官が海軍次官に宛てた「・・・沖縄県民斯ク戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノ 御高配ヲ 賜ランコトヲ」という電報も残っています。
http://kaigungou.ocvb.or.jp/
〒901-0241
沖縄県豊見城市豊見城236